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『花束みたいな恋をした』での天竺鼠の謎!偶然とカルチャー記号を考察

 映画『花束みたいな恋をした』を観て、菅田将暉さんと有村架純さんが演じる主人公二人の恋の行方に胸を締め付けられた方は少なくないでしょう。

しかし、その物語の核心には、二人が出会うきっかけとなった「天竺鼠」の存在が深く関わっているのをご存知でしょうか。

なぜ天竺鼠だったのか、作中でのカルチャー描写が何を意味するのか、そして天竺鼠の笑いが作品にどんなメタ的余韻を残しているのか、これらのテーマは物語をより深く理解する鍵となります。

この記事では、天竺鼠というフィルターを通して、この映画のテーマを読み解いていきます。

この記事でわかること

  • 『花束みたいな恋をした』における天竺鼠の役割
  • 作中で描かれたカルチャー描写の真の意図
  • 天竺鼠の笑いが物語のテーマとどう繋がっているか
  • 物語の裏側に隠された制作陣の意図やメタ的余韻

『花束みたいな恋をした』における天竺鼠が示す出会いの偶然性

  • 出会いのきっかけとしての天竺鼠
  • 天竺鼠という芸人の位置づけ
  • ライブの描写が省略される意味
  • ファン心理との乖離が示すもの
  • 作中でのカルチャー描写の記号性

多くの人にとって、主人公二人の出会いのきっかけは、偶然終電を逃した明大前駅での出来事として記憶されているでしょう。

しかし、その背景には、二人ともお笑いコンビ天竺鼠のライブに行きそびれていたという共通の出来事がありました。

もしライブに行っていたら二人は出会うことはなかったかもしれません。

そのため、ライブに行きそびれたという出来事自体が、二人の運命的な出会いを演出するための重要な要素として機能しています。

出会いのきっかけとしての天竺鼠

主人公の麦と絹が意気投合する大きなきっかけは、お互いが天竺鼠の単独ライブに行けなかったという共通点でした。

ライブに行けなかったという後悔と、同じものに興味を持っているという喜びが、二人の距離を急接近させたのです。

これは、単に趣味が同じというだけでなく、同じカルチャーを追い求める過程で生まれた共通の経験、あるいはその失敗が、他人との絆を深めるという物語の重要な導入部分を示唆しています。

作中では、お互いが「天竺鼠のライブに行きそびれた」ことを知った瞬間に、相手を特別な存在として認識する様子が丁寧に描かれていました。

天竺鼠のライブチケットは、二人が出会うための小道具として機能しています。

このチケットがなければ、二人は別の席に座り、お互いを知ることもなかったでしょう。

このように、一見すると些細な出来事が、人生を大きく変えるきっかけとなるという、映画全体のテーマを象徴しているともいえます。

天竺鼠という芸人の位置づけ

天竺鼠は吉本興業に所属する中堅コンビで、独特な世界観を持つシュールなネタが特徴です。

作中の舞台である2015年当時、天竺鼠はコアなお笑いファンからは支持されていましたが、全国的な知名度はまだ高くありませんでした。

そのため、東京での単独ライブは、お笑い好きにとっては非常に貴重な機会だったといえます。

このような天竺鼠の立ち位置は、主人公二人が「大衆とは違う、特別な感性を持つ自分たち」というアイデンティティを形成する上で重要な役割を果たしています。

二人が趣味を語り合うシーンでは、誰もが知るメジャーなものだけでなく、天竺鼠のようなマイナーながらも熱狂的なファンを持つカルチャーについても言及します。

これは、二人が単なるミーハーな存在ではなく、自分たちの感性を深く信じていることを示しています。

しかし、その一方で、このこだわりは後に、価値観のズレを生む原因ともなっていくのです。

天竺鼠のコンビ情報

項目 詳細
結成 2004年
所属 吉本興業
主なネタ シュールなコント、漫才
特徴 唯一無二の世界観、独特なワードセンス

ライブの描写が省略される意味

映画の冒頭で、麦と絹はそれぞれ別の理由で天竺鼠のライブに行けませんでした。

このライブの描写が意図的に省略されていることには、いくつかの意味が考えられます。

一つは、ライブそのものよりも、「ライブに行きそびれた」という出来事の方が、物語にとって重要だったということです。

ライブに行って感想を語り合うよりも、行けなかったという共通の失敗が、二人を結びつける運命的な出来事として描かれているのです。

また、このことは、二人が本当に天竺鼠の熱狂的なファンだったわけではないということを示唆しているようにも感じられます。

もし二人が熱心なファンであれば、ライブよりも他の予定を優先することは考えにくいでしょう。

しかし、麦はうっかり忘れてしまい、絹は別の男性との食事を優先しました。

これは、二人がお笑いを心の底から愛しているというよりも、むしろ、そのカルチャーを自分たちのアイデンティティを構成する一部として捉えていたことの現れといえるかもしれません。

この省略されたライブの描写は、二人の関係性の本質を暗示しているのではないでしょうか。

ファン心理との乖離が示すもの

二人が天竺鼠のライブに行きそびれた理由は、熱心なファンであれば考えにくいものでした。

麦は単にライブを忘れてしまい、絹は初めてデートした男性との食事を優先しています。

これは、二人が「天竺鼠ファン」というよりも、むしろ「天竺鼠が好きな自分」に酔っていたのではないかという見方を生んでいます。

本当にお笑いを愛する人であれば、他の予定をキャンセルしてでもライブに行くものです。この熱量と行動の乖離こそが、二人が「ミーハー」な存在として描かれているゆえんだといえるでしょう。

多くは、自分の好きなカルチャーを深く探求していくものです。

しかし、二人の場合は、共通の好きなものを見つけることで満足し、それを深く追求することはありませんでした。

こう考えると、二人が共通して好きだったものは、深く愛する対象ではなく、お互いを繋ぎとめるための記号として存在していた可能性を考えることができます。

注意点として、映画内では絹が天竺鼠の読み方を「てんじゅくねずみ」と間違える描写があります。

熱心なファンであればまずありえない間違いであり、この点からも二人のファン心理が本物ではなかったと示唆されています。

作中でのカルチャー描写の記号性

作中では、天竺鼠以外にも多くのカルチャーが描かれています。

穂村弘の歌集や、今村夏子の小説、きのこ帝国の楽曲など、サブカルチャーの固有名詞が頻繁に登場します。

しかし、これらの作品の内容について二人が深く語り合うことはほとんどありません。

なぜなら、これらのカルチャーは、二人の会話を円滑にするための共通言語であり、自分たちが非凡な存在であるという自意識を保つための記号として機能していたからです。

例えば、「押井守」をたまたま見つけた際に、周囲のカップルがその価値を理解できないことに、二人は優越感を感じていました。

これは、カルチャーの深い部分に触れることよりも、自分たちがそれを知っているという事実の方が、二人の関係性にとって重要だったことを示しています。

このように、映画全体を通してカルチャーは、二人のアイデンティティを形作るための道具として描かれています。


『花束みたいな恋をした』にて天竺鼠が語るテーマの考察

  • なぜ天竺鼠だったのかという説を検証
  • 天竺鼠の笑いと作品テーマの接続可能性
  • ハイコンテクスト文化批判の一端として
  • 観客の受け止め方の二極化
  • 天竺鼠が残すメタ的余韻
  • 『花束みたいな恋をした』での天竺鼠の謎!偶然とカルチャー記号を考察のまとめ

『花束みたいな恋をした』の主人公二人が、なぜよりにもよって天竺鼠のライブに行きそびれたのか、という疑問は多くの観客が抱いたことでしょう。

ここには、制作陣の意図が隠されていると考えることができます。

天竺鼠のシュールで独特な笑いは、大衆的な笑いとは一線を画しています。

そのため、彼らのライブを観に行くという設定自体が、主人公たちが「普通」の若者とは違うということを示すための記号として機能しているのです。

なぜ天竺鼠だったのかという説を検証

この映画では、数多くのお笑い芸人の中から、あえて天竺鼠が選ばれました。

東京で活躍する芸人ではなく、コアなファンに支持される天竺鼠を選んだ理由は、主人公二人の持つハイコンテクストな文化への傾倒を象徴するためだったと考えることができます。

天竺鼠の笑いは、その世界観を理解している人にとっては非常に面白いものですが、そうでない人にとっては全く意味が通じません。

このような笑いは、まさに「わかっている人たち」にしか通じないコミュニケーションであり、麦と絹の関係性そのものを表しているといえるでしょう。

また、天竺鼠は2021年に無観客・無配信の単独ライブを開催しました。

これは、誰の目にも触れない場所で、自分たちの笑いを追求するという芸人としての姿勢を示しています。

もしかしたら、この行動は、SNSなどで承認欲求を満たすことを目的としていた麦と絹のような若者たちへの、ある種のメッセージだったのかもしれません。

なぜならば、天竺鼠という存在は、常に自分たちの信じる道を突き進む、ある意味で究極の「表現者」だからです。

天竺鼠の笑いと作品テーマの接続可能性

天竺鼠のシュールな笑いは、時に脈絡がなく、不条理に感じられます。

しかし、彼らの笑いは、既存の価値観や常識を疑い、新しい視点を提供してくれるものです。

これは、『花束みたいな恋をした』が提示する「仕事とは」「恋愛とは」「人生とは」といった問いかけと深く繋がっているといえるでしょう。

二人は仕事に追われ、恋愛を諦めかけた際に、天竺鼠のような不条理な笑いを見つけられなくなりました。

社会のルールや常識にとらわれずに生きていた二人が、現実という不条理な現実に直面し、笑いを失っていく様子は、非常に示唆に富んでいますね。

二人の関係性が破綻していく過程は、天竺鼠の笑いを理解できなくなることと並行して描かれています。

これは、天竺鼠の笑いが、二人の自由な精神や、社会に縛られない価値観の象徴であったことを示しています。

つまり、二人は笑いを失うことで、自分たちらしさも失ってしまったのです。

ハイコンテクスト文化批判の一端として

『花束みたいな恋をした』は、天竺鼠のようなハイコンテクストな文化を好む若者たちの姿を描きながらも、同時にその文化が抱える問題点を批判しているようにも見えます。

二人は「わかっている人たち」にしか通じない共通言語を持つことで、自分たちだけの世界を築きました。

しかし、その世界は社会との繋がりを断ち、最終的には二人だけの価値観に閉じこもる原因となりました。

これは、ハイコンテクストなコミュニケーションが、時に分断を生み出し、他者との対話を困難にする可能性を示唆しています。

日本はしばしば「ハイコンテクストな社会」だと言われます。

多くの前提を共有することで、言葉を尽くさなくても分かり合えるという文化です。

しかし、この映画は、その前提が崩れた時、人々は簡単に分かり合えなくなるという現実を突きつけています。

二人が別れる原因は、仕事観のズレや、お互いの価値観の変化ですが、それは根本的には、言葉を交わさなくても分かり合えるという幻想が崩壊した結果といえるでしょう。

観客の受け止め方の二極化

『花束みたいな恋をした』を観た観客の反応は、大きく二つに分かれました。

一つは、主人公二人の姿に深く共感し、感動したという声です。

もう一つは、二人の未熟さや、文化の消費の仕方に批判的な意見を持つ層です。

この観客の受け止め方の二極化は、まさに作品が描こうとしたテーマを反映しているといえるでしょう。

天竺鼠という存在が、お笑いを深く知る観客と、そうでない観客を分けるように、この映画は観客自身の文化に対する向き合い方を問いかけています。

特に、サブカルチャーへの深い造詣を持つ観客は、二人の浅い知識や、「てんじゅくねずみ」という間違いに、苛立ちを覚えることもあったようです。

一方で、サブカルチャーに詳しくない観客は、単に「趣味が同じ二人」として、二人の関係性に共感しました。

この違いは、観客がそれぞれ異なる「コンテクスト」を持って映画を観ていることの現れであり、作品の多層的な魅力を生み出しているといえます。

天竺鼠が残すメタ的余韻

天竺鼠の存在は、物語を超えたメタ的余韻を観客に残します。

二人が出会い、恋に落ち、そして別れるという物語は、現実の私たち自身の恋愛と重なる部分が多くあります。

しかし、その背景にある天竺鼠のような特定のカルチャーは、観客自身の「好き」や「こだわり」を問い直すきっかけを与えてくれます。

物語の登場人物が、特定のカルチャーをどのように消費しているかを見ることで、私たちは自分自身が同じように振る舞っていないか、自問自答することになるのです。

映画の冒頭で「天竺鼠」という固有名詞を出すことで、制作陣は観客に「この映画は、あなたたちの物語でもあり、あなたたちの文化に対する批評でもある」と問いかけているように感じられます。

このメタ的な仕掛けが、観客の心に強く響き、映画を何度も見返したくなる理由の一つになっているのではないでしょうか。

つまり、天竺鼠は単なる小道具ではなく、物語の主題を観客に深く考えさせるための重要な装置なのです。

『花束みたいな恋をした』の天竺鼠は、単なる出会いのきっかけではなく、物語のテーマを深く読み解くための鍵であると考えると、映画はより一層面白くなります。

『花束みたいな恋をした』での天竺鼠の謎!偶然とカルチャー記号を考察のまとめ

この記事では、映画『花束みたいな恋をした』に登場する天竺鼠という存在に焦点を当て、その役割や作品に込められたテーマを考察しました。

最後に、記事のポイントをまとめます。

まとめ

  • 二人の出会いのきっかけは天竺鼠のライブに行きそびれたという共通点
  • 天竺鼠はマニアックな文化を愛する自分たちを象徴する存在だった
  • ライブの描写を省略することで二人のファン心理との乖離を描写している
  • 作中で語られるカルチャーは二人のアイデンティティを保つための記号だった
  • なぜ天竺鼠だったのかという問いは観客に作品の深いテーマを問いかける
  • 天竺鼠の笑いは二人の自由な精神の象徴として描かれていた
  • ハイコンテクストな文化が時に人々の分断を生むことを示唆している
  • 観客自身の文化に対する向き合い方を問い直すメタ的な仕掛けがあった
  • 天竺鼠という存在は物語の主題を観客に深く考えさせるための装置だった
  • 二人の関係性の変化は笑いを失っていく過程として描かれていた
  • ファン心理との乖離は二人の未熟さを象徴している
  • 天竺鼠という特定の文化を出すことで同時代の若者像をリアルに表現している
  • この映画は単なる恋愛物語ではなく現代社会への批評として読み解くことができる
  • 観客の受け止め方の違いが作品の多層的な魅力を生んでいる
  • 最後に残るメタ的余韻が映画をより深く心に残す理由の一つになっている

この記事では、映画『花束みたいな恋をした』における天竺鼠の役割について深掘りしました。

単なるお笑い芸人ではなく、二人の関係性や作品のテーマを読み解く鍵となる存在だったことがお分かりいただけたかと思います。

あなたが映画を観た際に抱いた疑問や感想と、この記事での考察を照らし合わせることで、また新たな発見があるかもしれません。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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